愛の処方箋





頑張って恋愛してても、時々、悲しいこと、不安に思うことってあるわよね。そんな時、友達に相談してみたり、一人でめいいっぱい頑張って考え込んだりしたりしちゃうのよね。。Kaori は、そんな時、同じような心境のことが書かれてる本を読みあさってしまうの。ラッキーだったら、その読んだ本にヒントが書かれてあったりで、精神的に楽になれるの。。

アメリカみたいに、セラピストに通うのが一般的で、身近なものだったら、当然通ってるんだろうな・・・って思う。でも、そうもいかないから、そんな時は、本に頼っちゃう。kaori のお気に入りの本から、数箇所抜粋するわね。これで、Kaori 以外の女の子も気分的に楽になれたらいいなって思うから。
 


〈愛〉の処方箋新装版こころと魂を癒すサイコセラピストの助言62 〈愛〉の処方箋新装版こころと魂を癒すサイコセラピストの助言62

著者:ダフニ・ローズ・キングマ / 近藤裕
出版社:春秋社
本体価格:1,600円
あなたの悩みを解決します。人間関係・男女関係のさまざまな悩みについて、アメリカ人気NO.1のサイコセラピストがアドバイス。

精神的な絆を求めていますか? Aspire to a Spiritual Relationship

感情だけのつながりなら、大切なのはあくまで互いの関係の中身そのものですが、精神的な絆を得たふたりにとっては、それぞれの精神の幸福と魂の成長が何にもまして重要になります。

また、ロマンチックな関係は時がたてばいつか終わるものですが、精神的なつながりは時の絆を超えた意味あいをもちます。

精神で愛しあったとき、その二人は互いに愛し、欲し、慈しみ、崇敬し、守りあうのに加え、互いの精神の幸福のために戦う闘士となります。

精神的なつながりはあたたかく、心やすく、思いやりと慈愛に満ちています。エゴという終わりのないメリーゴーランドを抜け出したところでは、人は、
相手に対して寛容にもなれば忍耐強くもなれるのです。
頑張るのはほどほどに  Stop Trying So Hard

心の中にはいつも「努力」の二文字がぶらさがり、何をするにも「努力しなくちゃ」「頑張らなくちゃ」と自分にムチを打つばかり。でも、そうやって頑張るのは、少しもスマートじゃないし、楽しくもない。むしろまったくその逆です。

こんなふうに愛をとらえていると、愛は本来の輝きを失っていきます。よい関係を結ぼうと頑張るのも、上手な話し合いの仕方を学ぶのも結構。でもあまりにそれを気を取られていると、愛という不思議な力、ふたりをまず最初に結びつけた神秘の力を殺してしまう結果になりかねません。

愛とは、真実の愛とは、決してどこかに到達することのない、終わりなき美しい努力です。それは精神の恵であって頑張りの結果ではありません。
それは努力の見返りではなく、贈り届けられた宝物。私たちはただそれを受け取ればいだけ。そして愛が魔法のように、自然に胸にわきあがってきたときは、それをどうこうしようと努力などしないこと。ただその思いが流れ出るにまかせればいい。

そして愛する人とのつながりが、ふいに、思いもかけぬ美しい瞬間をさしだしてくれても、
くれぐれもそれを分析したりしないこともう一度くり返そうなどと画策しないこと。ただ心を開いて、その美しい贈り物が花開くにまかせればいいのです。


プライドはいらない  Cast Off Your Pride

プライドはまがいものの感情。愛を深める道を閉ざしてしまいかねない危険な感情です。それは、心の奥にある本音が自分でも受けとめかねないほどつらいものである時、かわって心にわきあがる思い。プライドは本音を拒絶したかわりに心にわきおこり、そのまま保存されます。それは辛い時を乗り越える支えになります。内心ではお手上げだと思っていた苦境を、プライドゆえに切り抜けられることもたしかにあるでしょう。でも、プライドがあたかも人格の一部のようにしっかり根をはってしまうと、これはちょっと危険です。

プライドにあまりにこだわりすぎて「私はもっと違うふうに扱われるべきだ」「自分はもっと価値のある人間なのに」「私の価値に気づかないなんて、とんでもない奴らだ」と、そんなことばかり考えていると、目の前にあるものが、たとえばこの美しい、二度とくり返されることのない今という一瞬が見えてなくなってしまいます。そればかりか、自分が自分として一歩前進するチャンスを失うことになるのです。

だから
プライドをもつのはやめて。プライドは、あなたの威厳を保ち、あなたがおそれているあらゆる批判から身を守ってくれるかもしれません。でも結局最後は、あなたをひとりぼっちにしてしまう。そのときそばに残るのは、ただプライドだけ・・・・・。

セックスの意味を考えたことがありますか?  Discover Sex as Sacred Reunion

人間の性は、親密な関係においてもっとも素敵な一面、そしてもっとも複雑で、もっとも深い充足感を与える一面でもあります。喜びを与えもするし、失望をももたらします。互いをもっとも深く傷つける裏切りの温床にもなれば、エクスタシーの瞬間の源にもなるのです。

セックスを通して人は、時空を超えた空間へと一瞬入り込みます。愛しあうふたりがともにするこの体験は、他のどんな共有よりも、互いに真に結ばれているという喜びをもたらしてくれます。エゴやそれにまつわる諸々の思惑はすべて洗い流され、自分をまるごと相手にゆだねるうちにお互いの「自己」がいつか溶けていってしまう・・・・。

そうすることで人は、自分の肉体を聖なる存在の宿り家として、エクスタシーの瞬間を精神の贈り物として、そして愛する人をこの永遠の祝杯を分かつべく授けられた相手として見るようになるでしょう。



賞賛はたっぷりと、ぜいたくに  Be extravagant with Your Praise

男女は近しい関係になると、往々にして、相手の美点を見る目を失い、また互いの長所を忘れがちになってしまうもの。親密な関係が成立すると、人は自分をそもそも恋におとしいれた相手の長所や、たまらない魅力を感じた仕草やくせ、比類なき情熱などを認めるのをつい怠ってしまうのです。

いったんパートナーをつかまえてしまうと、人はだいたいが賞賛することに不精になり、ひどければその言葉をけちるようにすらなります。愛する人からの賞賛というあたたかいお風呂につかれば、心の傷はきれいに洗い流され、互いの絆はずっと深まるものなのに。

これではまるで賞賛を、愛する誰かをつかまえる餌につかっているようなもの。愛する人の長所や美点、その人だけにしかない何かを大声で口にし、やかましいくらいにほめたたえてこそ、ふたりの愛は生き生きと脈動するものなのに・・・・。

だから、相手とすてきな関係でいたければ、相手の美点を常に感じていたければ、そしてかけがえのない人を
愛し愛されているという思いをいつまでも失わずにいたければ、賞賛を周到に的確に口にすること。相手をほめたたえるのを忘れないこと。出し惜しみなどせず、たっぷりぜいたくに賞賛の言葉をふるいましょう。
愛ゆえの妥協を前向きにとらえていますか?  Accept the Glorious Compromises of Love

親密な関係には必ず犠牲の一面が伴うものです。どんなに幸せな、息のあったカップルでもそれはかわりません。自分のすべてを賭けてただ一人の人を愛することを選んだら、それを裏返せば、他のすべての選択を選ばなかった・・・つまりは放棄したということだから。誰かを愛する道を選んだまさにそのために、他の選択肢を少なくともしばらくの間はあきらめることになるのだから。

誰かを愛する思い、それに「愛しあっている」というめくるめく体験は、人をみずから自己犠牲へと走らせます。恋に落ちた人間は、あとさきのことなど顧みず「あの人のためなら」と自己犠牲を切望さえするものです。他のすべての可能性をふり捨てて、愛というただひとつの道を選びとる快感・・・。そして、愛する人がそばにいるだけで胸は熱くなり、このうえない喜びと幸せ、そして誉れをすら感じるのです。

愛ゆえに行う妥協とは、嗜好を意識的に見直す作業でなくてはなりません。そう考えれば、妥協は創造的な、イマジネーションに富んだ行動になるはず。そして、人生の可能性を押し広げ、それまで思いもかけなかった新しくすてきな枠組みから人生をとらえ直す契機にもなります。

けれども何よりすばらしいのは、それが互いの愛の深さを示してくれることです。なぜなら
自分の独断的なこだわりを見直して、邪魔なでっぱりを削り落とした時、ふたりは互いに一歩、歩み寄ることができるのだから。そうすることで、人生でほんとうにいちばん大切なのは「ああしたい」「こうしたい」という隙間のないこだわりではなく、相手の魂を心の底から認めてあげること・・・愛・・・だと気づくはずだから。


変化から目を逸らしてはいませんか?  Attend to the Unfolding

現実に目を向け、それについて相手と話しあうのは、愛するもの同士にとって非常に大切なことなのです。そうすることで、人は現実に踏みとどまることができます。愛する相手が自分自身の人生の展開とともにいかなる変化を遂げようと、互いの手をはなさずにいることができるのです。この、常に意思の疎通をはかり、互いの気持ちをしっかり把握することこそが、親密な関係を成り立たせる要素なのです。

人生は、そして愛する人との関係は、あなたにさらなる変化を求めつづけるのです。しっかり目を開いてそれらのサインを受けとめなければ、すばらしいチャンスをみすみす逃してしまいかねません。

だから、自分自身に起こっている変化を・・自分の心に、ふたりの生活に、そして何より愛する人の身に起こっている出来事を常に見つめていましょう。そうすれば、互いの関係にスパイスを入れたり補強したりするチャンスや、絆をより深くより強くし、時には一新するチャンスをひとつだって見逃しはしないはずです。



幸福の体験は喜びへのレッスン  Practice Happiness to prepare for Joy

幸福とは満ち足りた状態。歓喜の状態。至福の、極楽の、安らぎの状態。それは人の心をふわりと軽くするもの。それは遊びがもたらす報酬。不安や心配の対極。そして絶望を癒す薬。幸福感は瞬時に私たちの内を駆け抜け、甘くしびれるような思いを残していく。そして人は、常に幸福のなかで暮らしたいと、幸福を追い求めます。いつまでもずっと幸福に暮らしたいと願います。幸福は、人生を「どれくらいうまくやっているか」を測るものさしなのです。

幸福は心がめざすゴール、それぞれの自己が現世において追い求める目標です。幸福を感じるとき、人は「生きている」という思いを強くします。幸福なとき、人はより心安らかに、より寛大に、より親切になります。幸福は幸福を生みます。

幸福は他者と分けあうと何倍にも増えるもの。

「赦す」ことができますか?  Rest in the Radiance of Forgiveness

愛がふたりの人間をかぎりなく近づけ、互いが相手に相手に対してむき出しの無防備な心をさらけだすようになると、必ず私たちは愛する人を傷つけ、また自分も傷つけられる・・・・。愛の喜びの裏側には、愛ゆえにしばしばもたらされる傷や痛みがあるのです。

愛が必ず傷をもたらす一方で、この愛ゆえの傷・・・相手に与えた痛みと自分が受けた耐えがたい苦痛・・・・を癒すのは、単純にして得がたい妙薬、「赦し(ゆるし)」です。
真の赦しとは、こころの傷を癒そうとはたらく魂の作用なのです。

赦すとは、忘れることでも抑圧することでもありません。目をつぶることでも、あれやこれやの理由をこじつけて、そのイヤナ出来事が起こらなかったふりを装うことでもありません。

赦しとは、そうした行為のまったく逆のこと。それは痛みを全部引き受け、傷の広さ深さをすべて感じとり、そうして魂の錬金術を用いて痛みを別の何かに変容させることなのです。

では、どうすれば赦せるのでしょう?まず最初になすべきは、あなたを傷つけた相手の身に自分を置いてみること。そして考えてみて。もし自分が同じ立場に・・・どんな立場であれ・・・置かれたとしたら、自分だって同じことをしてしまったのではないか?その可能性が絶対にないと言い切れる?

次に、「傷つけられた」という事情をいったん脇に置いて、別の状況における相手をしばしの間思い起こしてみること。
そうして目と心をひらけば、あたたかい慈しみの思いがきっと流れ込んできます。

赦しは二重の意味での幸いです。それは、赦された相手を罪責感から、そして赦した本人を苦い気持ちから解放してくれるのです。
真実を生きていますか?  Live the Truth

この世に真実よりも純粋なものはありません。
真実は不可分。
真実は最高の美。真実は永遠。そして人間存在の根源にあるもの。真実に太刀打ちできるのは真実だけ。そして、真実として通ることができるのもまた真実だけ。

愛する人とともに真実を生きるのも、またひとつの旅。危うい道を手をとりあいながら進む旅。旅を行くふたりは、相手の声に耳を傾け、また自分の心を相手に向けて開くよう求められます。時には、相手の真実が姿をあらわすのをそばで見守るため、自分の重大な真実を表に出さずにのみこむ思いやりも必要になるでしょう。

愛する誰かとともに真実を生きるには、まず、ほんのささやかな真実から、つまり、その瞬間瞬間のふたりにとっての真実を、互いに愛をこめて語ることから始めなくてはなりません。互いの胸の内、要求、希望、夢を語り合い、そして、それぞれの自己の尽きせぬ開花とそれにともなうさまざまな変化を通じ常に真実を追い求めていけば、いつか人間すべてを包み込む大きな「真実」にたどりつくはずです。


否定の感情と向き合っていますか?  Face Your Denials

否定とは、自分自身にまつわるつらい事実を忘れ去り、認めないこと、自分にそれを知らせないこと、見せないこと、直面させないこと、認識させないことです。けれども否定はあくまで一時しのぎの、安易な開放策にすぎません。苦痛に耐えきれず否定に走るより、最初から真正面に苦痛と対峙したほうが、長い目でみれば、よほどましな結果がもたらされることもあるのです。

否定的な態度を四六時中とっていると、人の心はつらい事実を受けとめる強さを失い、常に回避策を求めるようになります。そしてそれは、人間としての成長にあらゆるレベルで歯止めをかける脅威と化します。

あなたがあなた自身であることは、この世の何にもましてすばらしく、美しいこと。心の奥に押し込めて忘れようとしていた思いも、あなたの一部にほかならない傷もすべてひっくるめ、そのままの、ありのままのあなたが一番すてきなあなたなのです。悲しい思い出や心の傷を抱えていたっていい。だってあなたはそれに耐えることができたのだもの・・・・
だから勇気をもって、自己の否定と向き合ってみて。



愛する人を精神的存在として見ていますか?  See Your Beloved as a Spiritual Being

恋の最初の瞬間に全身をかけ巡る嵐のような感覚は、共通の生活から生じる無数の義務やつとめに邪魔されて、いつしか輝きを失っていくものです。でも、愛する人をいつも聖なる存在として見ていれば、最初のめくるめく感覚が過ぎ去った後も、魂の内なる目を通して相手の奥底にある真実を見ることができます。

その目を失わずにいれば、愛する相手はあなたにとって常に、まぶしく輝く存在であり、無限の美しい魂でありつづけます。彼女は彼女の愛の具象であり、彼は無限の喜びの宿る家なのです。



不安をおもてに出すことを恐れないで  Express Your Deep Fears

もしも愛する者同士が互いの不安を共有しなかったら、不安の包みをほどいて中を見つめ、愛してやらなかったら、ふたりの生活は互いの不安によってむしばまれ、食い荒らされていきます。不安をおもてに表すこと、心のおののきに屈せずすべてをあらいざらい表現すること、それこそが互いの絆をいっそう強くするのです。

現実を受け入れていますか?  Accept What Is

人はたいてい恋に落ちると、相手の一見してわかる資質を見、「この人とならこうなれる」という状況を思い描き、手前勝手な期待や幻想で互いをまゆのようにくるみこんで、ごく気楽にふたりの関係をスタートします。

けれどそこで待ち受けている現実は、とんでもなく予想とかけ離れていることが少なくありません。

受け入れること・・・物事のあるがままの姿に満足する術を見つけること・・・は、心のあり方としては非常に発達した高位なものと言っていいでしょう。それはいいかえれば、自分のエゴがつくりだした先入観を放棄し、与えられた現実を受け入れることです。彼はあなたが望んでいたものを与えてはくれないかもしれない。けれど、彼の靭強な精神はいつも私に元気を与えてくれる・・・・というふうに。


批判する勇気をもっていますか?  Practice the Courage of Griticism

「批判」とは、他者の言動をネガティブな面も含めて率直に評価し、伝える言葉であり、愛する者同士の間ではもっとも勇気のいるつとめのひとつです。責任感と寛大な精神、誠実さ、それに思慮深さがなければ、愛する人を変容させるきっかけになるような批判はできません。

優雅に美しくさしだされた批判の言葉は、相手を勇気づけ、自己鍛錬へと向かわせる活性剤にもなるのです。

誠実な心をもって口にすれば、批判の言葉は相手への最高の贈り物になるでしょう。


自分への批判を受け入れられますか?  Open Your Heart to the Life-Changing Remark

批判を上手に受け入れるのは自尊心と勇気のなせる技であり、相手に対する信頼や、柔軟な態度、物事を正しくみる目、そして変化を恐れぬ気持ちがなくてはできない、きわめて高次な精神のあり方といえるでしょう。

上手な批判を行うのは一種の芸術ですが、批判を上手に受け入れるのは信頼のなせる技です。そして、愛する人と互いに進んで批判を交わし、それを受けとめられるような関係を築くことは、意識的な愛という道の行く手に立つひとつの道しるべなのです。
愛する人にあなたの人生を語っていますか?  Tell Your Beloved Your Story

私たちは長く誰かと身近にいると、それだけで互いのことを知っているように思いがちです。けれどそれぞれが自分の過去を語らなければ、互いの一番ほんとうの姿を、心のいちばん奥にある傷つきやすい自己を知り合うことはできません。過去の苦悩、甘い思い出、失望、大きな野望と夢・・・・そうしたものを言葉にした深い会話を交わさなければ、ふたりはどちらにとっても一面的でうすっぺらな存在のまま。

だから、愛する人にあなたの過去を語ってみてはいかがでしょうか。



愛する人は敵ではなく  Seek the Common Ground

人対人の心理劇を「やられたらやりかえせ」というルールで行っている私たちは、生きることすべてに敵対見方という型をはめる傾向があります。

私たちはひょっとしたら、こうしてスコアをつけておけば、愛する人と仲直りをしようというときにも自分が優位に立てると思っているのかもしれません。
残念ながら恋人は企業や会社のように、不良品を売ったからと告発されたり賠償を求められたりすることはありません。愛情の世界においては、「あなたは罪をはたらいた」と侮辱されたり証明されたりしたところで、ではそれを「弁償しよう」という人はいません。現実にそんな状況におかれたら、おおかたの人は、いきり立つ相手の前からさっさと逃げ出し、どこかに姿をくらますのがおちでしょう。

敵対関係から生まれるのは、戦争であって愛ではないのです。
だから、愛する人との間にいさかいが起きたときは、まず相手と共通の基盤をもとうと努めること。たとえ激戦のさなかにあっても、互いの理解へと橋渡しをしてくれる真実の核を見つければ、もとのふたりに戻る道は目の前に開けてきます。

だから、もし心の底から、愛する人とともにありたい、ともに楽しみ、ともに慈しみ、支え合い、育み合いたいと願うなら、相手を自分の敵のようにとらえるのはやめること。


希求と放棄のパラドクスを生きる  Inhabit the Paradox of Urgency and Surrender

こころの行く道はパラドクスに満ちています。その行く手には常に、希求と放棄が同時に人を待ち受けています。

たとえば恋に落ちたとき、私たちの心は一挙に燃え上がり、とんでもない命知らずになったり、何かに駆り立てられるように、熱に浮かされたように、一分一秒を愛する人のもとで過ごしたいと思ったりします。恋人に会える日を「あと何日」「あと何時間」「あと何分」と指折り数えて待ち、愛という名のもとに次から次へと法外な値段の買い物をする。たとえばダイヤモンド、たとえば香水、たとえば飛行機のチケット。

けれどもそうして何かを求める一方で、私たちは自分を襲った愛の力の前に、自分のすべてを投げ出す放棄の状態にあるのです。愛のためなら何でもするし、どこにでも足を運ぶ。他のすべての人をふりすてもする。それは、恋をしているとき、心は愛に向けて開かれ、愛で満たされているから。その瞬間、心は愛の技とその実践にかかりきりになっているから。

愛において精神を成熟させるとは、このパラドクスを受け入れる度量を養うこと、求めかつ求めないというふたつの状態を同時に生きること、愛ゆえに「希求する」と同時に愛ゆえに「放棄する」術を身につけることです。


精神的なレベルへ  More to the Spiritual Level

愛する者同志も時には必ず、出口の見えない難局にぶちあたります。
たとえば、幾度も果てしなくくり返される口論。何を言ってもいっこうに変化のない意固地な性格。見ているだけでイライラして、しまいには気が変になってしまいそうな相手の癖。こうした物事に囲まれていると、怒りや苦々しい思いや苛立ちがふつふつと胸にわきおこってくるはず。そうして心の中でつぶやくのです。あそこでああしたのがいけなかったんだ。あの人だってあんまりじゃないだろうか。私たちの仲はもうダメだ、もうおしまいだ、と。

けれど人はみな過ちを犯すものだし、耐えがたいほどつらい出来事もいつかは必ず起こる、それが現実です。愛する者同士の間でも同じ問題が幾度もくり返し火を吹くことはあるし、ふたりがいかにそれに取り組んでも、話し合っても、解決を試みても、そうそう進歩があるものではないでしょう。
そんなとき、心の底からがっくり意気消沈してしまうか、それをふたりの関係を新たな目から見直すチャンスと考えるかは自分次第。

まず、
愛する人があなたの気まぐれやわがままを全部満たすために存在するかのような考え方はやめること。かわりにふたりの関係を精神的なレベルまで引き上げ、今この難局において学びとるよう求められているものは何か、自分に向かって問いかけてみるのです。  

忍耐・やさしさ・思いやり  Be Patient, Gentle, and Kind

忍耐は静かな徳。それは、
今は見えていないものが、少しずつ少しずつ姿をあらわすのを喜んで待つことができる能力。それは信じる思い。あなたが自分のため、愛する人のため、そして長い長い人生のために望み、思い描き、願い、信じた物事が、時とともに徐々に花開き、そのもっとも完成された姿に近づいていくのを、揺るがぬ確信をもって待つことです。愛しあうふたりが互いに抱く忍耐も、心の奥深くにひそむ静かで揺るがぬ思い・・・自分は正しい道を歩いている、愛する人はいつもすぐそばにいる、どちらかが道に足をとられても回り道をしても、静かに辛抱強く待ち、再び一緒に歩いていけると信じる思いなのです。

やさしさはやわらかな徳。それは羽毛のようにふわふわとした羽毛のようにやわらかい心。それがあればどんな道も軽やかに優美にしとやかに踏み越えて、愛する人のもとに向かうことができます。やさしく相手に手をふれ、心を開いて話しに耳を傾け、相手の思いをともに感じ、慈愛の目で相手を見つめることができるのです。やさしさはあなたの行く道をならし、旅を優雅に洗練してくれます。吹きつける嵐をやわらげ、悲しみをクッションのように受けとめ、背中の重荷を軽くしてくれます。

思いやりは甘やかな徳。それは相手を慰撫し、安らかにし、蘇らせるもの。記憶の中に刻まれ、記憶に彩りを添えるもの。それはたとえば、あたたかな毛布、寝る前にはかされた靴下、誰かに贈られた花。
思いやりは、相手が求めている言葉を求められぬうちに語ること。心を洗い清める賛美の言葉を投げかけ、守り慈しむようにやさしく相手を抱きしめること。



自分の肉体を慈しんでいますか?  Look After Your Body

私たちは往々にして、自分の肉体を自分だけの所有物のように考えがちです・・・・そしてもちろん基本的にはそれは間違っていません。けれど、誰かを愛するようになったら、肉体は自分と愛する人とを結ぶ媒体にもなるのです。
肉体を、愛する人とともに分かつことは、あなたの本質を共有することです。
だからその本質を、自分の魂をもっとも端的に表現する器である肉体を、大切にしなければならないのです。愛し、育み、慈しんであげましょう・・・・あなた自身と、そして、あなたの愛する人のために。



相手の身になることができますか?  Practice the Art of Empathy

誰かのために一緒に何かを感じること、すなわち共感することは、愛する人とともに分かつ感情体験のうち、もっとも奥深いものといっていいでしょう。共感は互いに知り、知られているという思いを強めます。また、自分が相手からたしかに理解されているという思いや、ふたりが互いに深く美しく結ばれているという思いも強めてくれるでしょう。

他者に共感できるようになるには、まず、自分の感情を操る術を身につけること。感情をコントロールせよというのではありません。胸の奥のどんな感情にも問を開き、自在に自分の内を流れるようにするという意味です。それができれば、あなたは、共感という最高に高価な心の贈り物を相手にさしだすことができるでしょう。



愛する人のことを思いやっていますか?  Consider Your Beloved

愛する相手を常に思いやるのはとても大切なこと。思いやりは心の寛容。それは、あなたの愛する人が「自分は彼女の世界の一部であり、彼女に顧みられている」と感じられるようなやり方で、あなたが築く現実の世界に相手を引き寄せることなのです。

愛する人を思いやるとは、つまり相手のものの見方や環境が、あなたが下す決定によって影響を受けるのだと認識すること。相手のために自分自身の必要をあきらめたり、計画を見合わせたりせよというのではありません。何も考えず、ただ相手の望みをかなえようとするあまり、自分の望みを殺してしまうのは「思いやり」ではありません。思いやりとはただ愛する人を常に、あなたの頭の方程式の一要素として考えるだけのことなのです。

愛する人を思いやるには、まず、人には誰でもその人なりの現実があることを頭にいれること。あなたはこの世界の王様でも女王様でもない、あなたにとって良いことが、必ず他人にとっても良いとは限らないと忘れずにいることです。

思いやりは、とてもデリケートな形の愛。それは胸の奥にそっと秘めておく思い。



抱きしめて、抱きしめられて  Cuddle Up

人生の問題点は、それが居心地満点の場所ではないこと。だから人はみな、やさしく自分を抱きしめてくれる腕を求めます。誰の内にも住む小さな子どもが、あたたかい腕のなかで丸くなってキスされることを、愛をこめてやさしくかき抱えられることを望んでいるのです。

抱擁は肉体と精神にとっての栄養。そして私たちはみな、心の奥深くでそれを求めています。誰かに体を触れられ、腕の中に抱きとめられるとことは、そして自分の肌を・・・私たちの存在を包み込む、奇跡のように薄く美しい絹を・・・愛撫され、慈しまれ、記憶され、いとおしまれることは、人間にとって最大の必要のひとつなのです。

抱擁はあくまでそれ自体としてすばらしいもの。傷を癒す力のあるもの。かぐわしいもの。喜びにあふれたもの。人を慰めてくれるもの。甘くて、愛しくて、このうえなくすてきなものなのです。
だから抱きしめて。愛する人を、あなたのその腕で。



愛ゆえに尽くせますか?  Offer Loving Service?

たいていの人は、愛を「それが自分にとって何をしてくれるか」という観点からとらえてしまいます。誰かと愛し合ったとき、自分の夢は残らず叶えられるのだと、そんなふうに愛を想像しています。そして、自分の気持ちを知ってもらいたい、自分の必要を満たしてほしい、不安定な自分を支えてほしい、自分の望みを叶えてほしいと一途に願うあまり、愛ゆえに尽くすなど、ほとんど誰も考えもしないようです。

しかし、愛を究極まで極めれば、それは相手への奉仕になるのです。ただ、ありったけの心で相手に向かうその行為は、深い充足感をもたらすがゆえに、本人は「相手のために尽くしている」とはまったく考えないでしょう。むしろ最高に満たされた思いを味わっているはずです。




如何でしたか? アメリカでNo1 のセラピストだけあって中々、グサッ!と的中するところが多々あって。。。わかってはいるものの、
実際には出来ていないことがいっぱい。。。Kaori はこの本を何度も読み返してる。恋のバイブルかな。。。。
ここでは、ほんの部分的に抜粋してるだけなので、是非、皆さんにも読んでもらいたいオススメの本の一つです。


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